SSブログ

中学生の自殺を防ぐために必要なこととは [教育]

 今回は広島で起きた事件について所感を述べたい。この報道があってからこの事件について考えてきたが、最近ようやく考えがまとまった。

 このニュースを耳にしたときは、(推薦できないと言われたくらいでなぜ自殺したのだろう)と不思議に思った。しかも、推薦できない理由が万引き経歴で、それが濡れ衣だとすれば尚更だ。「1年の時の万引きは事実無根だから、推薦については再考してほしい。」となぜ言えなかったのか。
 
 世論は万引きの記録にミスがあった学校を批判している。そして、面談が廊下で行われたことなど、学校の対応に批判が集中している。これについては、当然という他ない。喫煙や万引きなどの生徒指導上の問題が多い学校であれば、杜撰なところも出てくるだろう。しかしこのような事態になっては、弁解の余地もない。また、担任の女性教師は卒業式にも欠席し、さらに火に油を注ぐ事態となっている。

 しかし一方で、「なんでも学校のせいにするのはよくない。」とか、「この程度で自殺するなんて。」といった意見もネットで多々見られる。
 
 そもそも報道では、「間違った進路指導で中学生が自殺」と報じられた。それは、本当なのだろうか。
担任は、廊下という不適切な場所ではあるが、「1年生の時に万引きがあったね。」と確認すると、中学生は「親に言わないでください。関係が悪くなるので。」と答えたという。
 これが本当だとして話を進めると、担任が1年時の万引きを本人が肯定したと考えてもやむを得ない。ではなぜ当人は肯定したのか。ふたつ考えられる。

 ひとつは、学校にばれていないが、別件で万引きをしたことがある。
 もうひとつは、学校の記録では万引き犯とはならなかったが、実は万引きをしていた。あるいは、実際にはしなかったが、万引きした友達と同罪と思っている。

 いずれにせよ、自殺には何らかの理由があるはずであり、僕はその理由として、「万引きがあったから推薦はできないと言われショックを受けたから。」よりも、「万引きがあったことを両親に知られたくなかったから。」と考える方が適切だと思う。
 気になるのは、「成績が優秀で明るい子」という評判。こういう子は無理をする傾向がある。両親の期待に応えようと一生懸命にがんばる、そんな子どもは、ふとしたことがきっかけで、ポキンと心が折れてしまうのだ。万引きはしていなかったかもしれない。ただそんな話題が進路面談で出てくるだけでも、この中学生には大事件に思えたのではないか。
 「いい子」と評価されている自分が、万引きが理由で推薦してもらえない。プライドもあったのだろう、「推薦がもらえない」というそのこと自体よりも、「自分の評価が下がったこと」がこの中学生にはつらかったのだ。「いい子」と思って自分を愛してくれている両親を裏切ってしまうことに、耐えられなかったのではないだろうか。
 
 僕がこの事件で思うのは、ふたつ。
 ひとつは、子どもに過剰な期待を抱かないこと。親の夢や希望を押しつけない。「いい子」であることを強要しない。家庭では素でいられるような温かい家庭環境を作ることが大切だ。子どもが悩みを打ち明けやすい親子関係。「友達親子」ではなく。
 僕には四歳になる娘がいるが、いつもご飯を食べるのが遅く、妻に叱られている。妻が叱るのは、ご飯をしっかり食べる「いい子」になってほしい気持ちがあるからだ。テレビを消したり、三角食べを教えたりしているが、しまいには固まって泣き出す娘。最初は冷たく叱るものの、妻は娘を励まし、食べるのを手伝い、娘ががんばって食べ終えると「いい子だね、よくがんばったね。」とほめる。娘は(がんばってよかった。)と満面の笑顔を見せる。親が「いい子」に育つことを望み、このような方法で「いい子」に導くのは自然なことだ。時には「がんばったらご褒美があるよ。こんどマック行こうか。」などとエサをぶらさげる。ただ、子どもが無理をしない範囲で「がんばらせる。」ことが大切だ。親なら、(親の愛情欲しさに無理してるな…。)と子どもの心理を読めなくてはいけない。この中学生の親は、それができていたのだろうか…と考える。

 そして二つ目は、学校の対応についてだ。万引きを一回したくらいで推薦なしは、やはりあんまりだろうと思う。一回の過ちがあったにせよ、推薦を判断する時点での人物評価を大切にするべきである。【喫煙や万引きがあったら推薦はなし】とお触れを出すことで未然防止を考えているのだろうが、そのような「まやかし」ではなく、ストレートでわかりやすい生徒指導をめざすべきだ。また、推薦の判断は誰がしたのだろうか。記事では、担任が万引きの履歴ひとつの理由で単独で決断したように感じられる。もしそうだとしたら問題だ。僕の経験では、本人が推薦を希望した場合は、それを受けて担任が書類を作成し(もちろんその書類には学力や素行、出席日数等が書かれている)、「校内推薦委員会」なる名称の会議で審議する。最終的に学校長が判断する。このような手順を踏んでいれば、書類に書かれた「万引き」についても審議され、その真偽も自ずと明らかになったであろう。

 未来ある青少年が自ら命を断つ。この問題を、もっと真剣に議論する必要がある。大人、社会は、あまりにも大きな重荷を子どもたちに背負わせてはいないだろうか?
 そして学校も、本当に子どもの心に寄り添った指導をしているだろうか。

 学校が悪い、いや、自殺する子が悪い…。

 そんな議論は、議論でもなんでもない。

 いい加減にしろよ、日本人…。


  

中間層が中間層を再生産は当たり前 [教育]

「BLOGOS」でこんなブログを見つけた。

【「東大まで行った人は教師にならない。中間層が中間層を再生産している」 現役東大生の発言で議論勃発】

 この議論について思うこと、まずひとつは、「中間層が中間層を再生産している」という発言は「当たり前」ということだ。この発言自体になんの意義もない。
国が安泰するためには、三種類の人間が必要である。「国を発展させる人間」「国を維持する人間」「国をダメにする人間」の三つだ。割合では「国を維持する人間が大半以上を占めるわけであり、この存在が国の根幹となる。地方大学の教育学部を卒業した教師、つまり「中間層」が「中間層を再生産」するのは、国の安泰のためには重要なことなのだ。これは「役割分担」である。東大生が教師にならないのは、優れた頭脳でもって「国を発展させる役割」を担った存在だからである。
そして、「東大にまで行った人は、中学・高校の教師にならない。だから中間層の人が中間層の人を再生産している。」という発言には矛盾がある。東大生も中間層の教育によって出現しているという事実がある。
この発言をした東大生は、高校の教師に「この成績では行ける大学はない」と言われ一念発起して東大に合格したという。であるならば、この東大生、つまり「上層」は「中間層」によって育てられたのである。
教育とは、良質の授業や「上層」の教育で成果が挙がるわけではない。下層から上層までという様々な個性をもつ人間を相手に、教師は幅の広い対応をしなくてはいけない。相手によっては励ますし、あるいは発憤を期待してわざと生徒を突き落とすこともある。この東大生は、「この成績で行ける大学はない」と言った教師に感謝すべきである。人生とは、そういうものだからだ。いろんな人の存在があって自分が作られていく。そのことを実感し、人との出会に感謝してほしい。

 この「BLOGOS」のブログでは、偏差値29から80にまで引き上げて東大に合格した東大生の「たぶん人間の脳はいくらでも拡張できる。どんな人でも東大に行ける。」という発言を受けて高校教師の対応を問題にしているが、どう考えてもこの東大生の発言は信頼できない。努力すれば全員東大に行けるなんてあり得ない。この東大生にはもともと能力があったに過ぎないのだ。偏差値29の生徒に向かって「おまえは努力すれば東大に行ける」という教師がいるとすれば、そっちの方が怖い。
 
 「中間層じゃないとうまく教えられない」という側面もある、と「BLOGOS」のブログでは言っているが、これも当たり前。東大生の発言に、「ひとつの真理」と賛同する声が多いそうだが、率直な感想を言えば「情けない…。」

 この東大生は、「上層」であり、日本の未来を担う存在である。自分を発憤させた教師を「中間層」と嘲笑し、「中間層が中間層を再生産している。」と、「当たり前」のことをさも新しい発見のように大いばり。
 こんな東大生が日本を担うのかと思うと、そっちの方が問題である。
もうひとつ言うと、東大生に教師は務まりません。東大生が仮に教師をしたとしても、学力は伸びないし生徒指導の問題もなくなりません。かえって学力は下がり、問題が増える。勉強することと教えることはまた違う。そして学校は、受験のためにあるのではない。生徒それぞれが自分の生き方を見つける場所である。

「教師」である僕が言うのだからまちがいない。

奉仕活動としてのPTAはいらない [教育]

 PTAは必要か、という問題提起はもっとあっていい。
 そういった意味でこの記事を評価するし、「PTA,やらなきゃダメですか?(小学館新書/山本浩貴著)」も応援したい。

 物事を判断するときに大切なことのひとつに、「個人の尊厳」や「意思」が尊重されているか、僕は考える。
 この点において、PTAとは、個人の意思に関係なく、学校に入学と同時に「入会」するきまりとなっている。そして何らかの役が回ってくる。つまり完全に「強制的」であり、個人の意思は無視されている。
 これは問題である。「仕方なく」する活動は、意義もないし効果も期待できない。

 そもそもPTAは、日本とアメリカにしか存在しない。
 アメリカでは、教師を雇用するのは学校であり、教師の「監視」という目的でPTAがある。どんな教師が、子どもになにをするかわからないからだ。
 戦後、GHQの指導のもとで設立が奨励された日本のPTAの目的、その真の目的もやはり教師を「監視」するためだった。ただ、「監視」の意味が違う。戦前「鬼畜米英、一億玉砕」と叫び、子どもに「竹槍訓練」ばかりさせていた教師が、本当に「民主主義教育」を推進するか、親に監視させるのがねらいだった。
 
 確かに子どもの健全育成のためには、親と学校、そして地域が連携を図る必要はある。子どもから教師による暴力や、性被害やいじめから守るためにも、教師の「監視」は必要だ。そしていろんな行事・イベントの企画も大切。
 ただし、やはり「ボランティア精神」によって推進するべきだろう。

 日本で「ボランティア精神」が芽生えたのはつい最近のことだが、それでも根強く「奉仕活動」の精神が残っている。
 「奉仕活動」は「強制的」である。従わなくてはならない。つまりPTA活動は「奉仕活動」なのだ。英語では「social service(ソーシャル・サービス」。これに対するのが「voluneer servise(ボランティア・サービス)」だ。
 つまり、健全なるPTA活動とは、ボランティア活動によって推進されるもの、となる。

 これを実践したのが「PTA,やらなきゃダメですか?(小学館新書))」の著者、山本浩貴氏だ。
 山本氏は、突然PTA会長に推薦されたが、PTA活動に疑問を感じ、必要な活動ごとに参加者を募るなど、ボランティアによるPTA活動に改革した。この方法は親の意欲を引き出し、親の得意とする分野・技能を生かせる。なによりも、学校が活性化し、子ども達も元気になる。

 そして、「子どものため」とは言うが、PTA会長ともなると出席する会合は多い。学校のPTAはもちろん、市町村PTA連合会、地区・郡PTA連合会、県PTA連合会と組織はふくらみ、講演会への参加や研究発表など、かける労力は並大抵のものではない。
 ただでさえ日本は家族の団らんが失われつつあるにもかかわらず、これに拍車をかけている。PTA連合会の会長などは、「もっと子どもと会話をしましょう。」と呼びかけるが、当人にそのヒマはない。
 矛盾である。

 実は、僕の父親もその昔PTA会長をした。地区連合会のPTA会長まで引き受け、多忙な毎日。中学生だった僕との会話は少なかった。もちろん、思春期だったから、父と話がしたいとはそれほど思わなかったが、父にしてみれば、PTA活動をがんばる背中を僕に見せることで、僕になにかを伝えたかったのかもしれない。
 それは、それなりに伝わった。しかし、父が亡くなった今となっては、もう少し面と向かって話がしたかった。

 時代は変わった。奉仕活動は、なるべくなら無くすべきだ。
 子どもが小学校や中学校に入学するとき、「強制するPTA」に加入するのは気が重い。折角の喜びが憂鬱に変わるのも好ましいことではない。

 PTAを変えよう!

 この風が、全国の学舎に拭くことを願ってやまない。
 そして、自分自身も行動を起こそうと思う。

 とは言うものの…。
 妻が幼稚園の役員を引き受け、楽しそうに会合に出かけていく。楽しいのであれば、それはそれでいい。自分もできるだけ協力している。

 

岡本太郎の生き方はいいかも [教育]

 NHKの火曜日午後10時。マツコの知らない世界のあとは、「知恵泉」を見ている。
 今日は「岡本太郎」だった。

「芸術は爆発だ!」でおなじみ。あと大阪万博の「太陽の塔」。母は詩人岡本かの子。
 知っているのはこれだけだった。この番組を見るまでは。

 父親も芸術家で、妻のかの子が「好きな人ができた。」と言うと、「好きになったなら仕方がない。」と、愛人との同居を許す。確かにかなり変わっている。芸術一家だから、茶の間で芸術論を闘わすことがあったが、太郎が議論に参加すると、両親は子どもだからとバカにすることなく、素直に意見を聞いていたという。

 能力が低く、いつも周囲からバカにされていた太郎にしてみれば、両親のこの態度には救われたことだろう。そして両親との議論から、優れた能力が育っていったのは想像に難くない。

 パリに画家留学したときのエピソード。周囲の仲間が「パリ留学」のステータス目的だったことに落胆し、しばらく絵から離れることを決心。フランスのネイティブと親交を深める。これはこれで、いろんな苦悩もあっただろうと思われる。太郎は、パリの街を放浪するなかで、「有名になりたい、金持ちになりたい。」という欲求から解放される。その解放から、人間の根源にあるパワーに気づかされる。これがいわゆる「芸術は爆発だ!」という表現の理由であろう。
 第二次世界大戦に召集され、自ら苦労を買って出る。「苦労のある人生は楽しい。」という考えに、僕も同意する。

 確かに太郎が世に出たのは、両親の威光の賜物であろう。しかし、苦悩と苦難を乗り越え、それに応えるだけのパフォーマンスを世に示した。
「時代が生んだ」と言われる人がいるが、岡本太郎もそのひとりなのだろう。

 この番組で学んだこと。
◇ 子どもの育成に親子での議論は有効である。

 今、四歳になる子が「なぜ?」と盛んに質問してくる。親として、なるべく詳しく説明してやる。妻は「そんなことわかりっこないじゃない、まだ四歳なのに。」と言うが、「わからないと決めつけるのはよくない。説明からさらに新たな疑問が生まれ、思考も深まる。」と反論。これからはどんどん四歳の子に議論をふきかけ、「考える子」に育てたい。

◇「人間の根源」を感じろ!
 僕は今、小説を書いており、「売れたい、金がほしい。」という気持ちが先行してしまっている。それではいけない。小説自体にもっと没頭しなくてはいけない。おもしろい小説が書きたいなら、人間への洞察を深め、人間を理解し、そして自分が何をしたいかを明確にし、元気はつらつと創作に励む。
 そうすれば、いつか光が見えてくる。

 今、僕は洞穴の中にいるのだ。

※ 次回、NHK「知恵泉」は岡本太郎後編、「太陽の塔」制作について。今度はどんな生き方・考え方を 見せてくれるだろうか。
 



TBSの「モニタリング」がおもしろい! [教育]

きのう(2/25)のモニタリングが面白かった。

特に、「とつぜん息子・娘が芸能界に入りたいと言い出したら父親は許すのか。」というコーナー。

最初の親子は公務員の父に就職が内定した息子。息子がとつぜんお笑い芸人になりたいと言い出し、すでにオーディションにも合格したと契約書にサインをしてくれと頼む。
 公務員という仕事柄、父親は許さないだろうと予想された。「小さい頃からの夢ならわかるが、そんなこと今まで聞いたことがない。一過性のもんだろう。」と父はさすがによく見ている。息子は、「とにかくびびらない松村です。」とか言って、完全に「安村」のパクリでネタを披露。父親は「見たくない、見たくない」と拒否するが、息子は平然とネタをやり続ける。「それ、パクリだろう。それに面白くないからやめろ!」と言うかと思いきや、「けっこう面白かった。」らしい。最後には「それがおまえの夢なら。」と芸人になることを許す。

 次の親子は仲のいい父と娘。大学に入ったばかりの娘が芸能プロダクションにスカウトされ、プロダクションの男が自宅に契約書をもっていくる。仕事はグラビアだと聞かされた父親の顔が曇る。さらに、橋本マナミが登場。父親を説得するための登場かと思いきや、「かなりきわどいこともします。」と自身の写真集を見せ、追い打ちをかける。これには笑えた。この父親も最終的には娘がそう望むならとあっさりオッケイ。最後は「どうせこれ、あっちからカメラでも出てくるんじゃないの?」とモニタリングであることを当てた。モニタリングはよく見ているらしい。

 ふたりの父親とも意外にあっさりと子どもの要求を承諾し、「子どもの夢のためなら。」と、子どもの意思を尊重する態度には感動するものがあった。
 
 しかしだ。番組が終わってヨガをしていたら、妙な感情がわき上がってきた。
 そう、「ものわかりがよすぎる。」

 ひとりくらい、「ばかもん!(波平調)」と怒鳴るおやじがいてほしかった。「芸能界はそんなにあまいところじゃない! 世間をなめるのもいいかげんにしろ!」と叱責する父親。

 カミナリおやじは今や化石になりつつあると思ってはいたが、このモニタリングでそれがはっきりした。世の父親は、「ものわかりのいい父親」、そして親子は「おともだち」なのである。

 僕は、「ともだち親子」はうらやましいと思う。ただ、いつでも「おともだち」でも困る。時には「がんこ親父」になることがあってもいい。そんな親父を受け入れる子どもに育てたい。
 今、4歳になる娘がとってもかわいい。その娘がいろいろ甘えてくる。「いいよ、いいよ。」とついつい言ってしまうが、心を鬼にして、「だめだ!」というときもある。
 つらいんだな、これが・・・。

 父親は、「嫌われ役」です。耐えるべし!

小学校からの英語教育についてもの申す [教育]

小学校から英語教育は必要か、という問題について。
文科省は、現在5,6年で行っている「外国語活動」の時間を3,4年生に前倒し、5,6年生では英語を正式教科にする方針だ。2018年から段階的に導入する。

現在小学校では5,6年生で「外国語」という科目で英語教育が実施されている。自治体によっては予算を組み、英語教育の充実を事業として取り組んでいるところもある。
中学校から英語教師を呼んで授業をさせたり、英語の専任教諭を配置したり、またALTの派遣、英語弁論大会優秀者にアメリカ旅行プレゼントなど、いささか行き過ぎとも思われるような事業を展開している。
 
 グローバル社会において、英語の重要性は認めないわけではないが、果たして文科省の方針は適切と言えるだろうか。「小学校で英語は不要」と言い切る有識者もいる。
 
 カリキュラムから考察すると、小学校3,4年生から何を学ばせるのか、ということだ。簡単な英単語の学習は、幼稚園や保育園でもしているが、身の回りの日本語を英語で言えるような能力を身に付けること、それ自体は目標にはならないだろう。現在の小学校の外国語学習のねらいは、英単語を覚えることではなくて、英語に親しみをもつことだ。ALTとの会話を通して、英語を耳で理解し、英語で話す態度を養うことにある。5,6年で本格実施となれば、単語テストぐらいは実施するのかもしれない。

 僕は十数年前、イギリスのリバプールを旅行したことがある。庶民的なホテルに泊まり、ある朝の朝食時、宿泊していたフランス人と英語で話した。僕は片言の英語で、四苦八苦そのフランス人と会話をしたのだが、なんとか会話はできた。確かに、英語が得意だったらもっと楽しい会話ができただろう。悔やんだ僕は英会話の勉強をしようと思ったのだが、帰国してからはすっかりその気はどこかへ消えてしまっていた。
 仮に、僕が小学校から英語を学び、英会話も得意で、リバプールでフランス人と楽しく会話ができたとしよう。「ああ、英語ができてよかった」と僕は思うだろう。しかし、そう思うのは、そのときだけだ。僕が外国人と関わる場所にいないかぎり、僕は日本語だけで生きていける。

 なにを言いたいかといえば、日本人全員が流暢な英語を話す能力を身に付ける必要はない、ということだ。国際社会で確かに英語は必要だが、みながみな、国際社会に直接関わるわけではない。英語は特に好き嫌いがはっきりする教科で、将来英語力を生かせる職業を希望する児童生徒は早くから塾などに通っている。苦手な子どもは基本的な英会話が確実にできればそれでいい。
 あまりにも英語教育に力を入れすぎて、肝心の国語力が…、という本末転倒はあってはならない。
 日本語が危機的状況にあるなかで、英語力の育成を児童生徒に押しつけるのはいかがなものか。

 文科省にはぜひ再考をお願いしたい。

妻は鬼だし、夫もダメでしょ… [教育]

【夫たちの座談会、「嫁が鬼なのか、夫がダメなのか・・・】と題したブログ。
「イクメン」として地位を築き上げたサラリーマン夫3人の雑談だ。
イクメンとしての仕事ぶりや、鬼嫁自慢が展開されている。

鬼嫁自慢だったら僕の職場の同僚の話の方がよっぽど面白い。
そんな話よりも、すこし「鬼嫁、ダメ夫」について考えたい。

少年のころ「ダメおやじ」を読んだ。心根は優しいが、なにをやっても妻の「オニババ」にいじめられるダメおやじ。このマンガ、1970年から12年間連載された。
当時はまだ亭主関白の傾向が強かったが、時代と逆行する主人公を描くことでギャグ質を高めるねらいがあったという。
それが今や「オニババ、ダメおやじ」は現代社会の典型的な夫婦像になり、決してマンガの世界の話ではなくなった。「ダメおやじ」は、図らずも近未来を予想するマンガとなった。

「イクメン」と自他共に認められたサラリーマン三人の「ぼやき」を聞いていると、「イクメン」とはなんだ? という気がしてくる。
 ただ単に妻の「パシリ」で、家事手伝いを分担するだけで、それが「イクメン」というのは少し違うような気がする。
 きれいごとを言うようだが、やはり子どもへの「愛情」が根本にあるべきであり、妻への愛・感謝が心になければ、帰宅するなり牛乳を買いにいかされる羽目になる。
 「こころ」がないことへの妻の怒りだ。
 そして、家庭を「運営する」という意識。やせてもかれても男は家庭の「大黒柱」だ。男たるものは、この気持ちがなければダメだ。
 これは、威張れ、と言っているのではない。牛乳を買いに行かされる前に、牛乳が冷蔵庫にないことぐらい把握しておいて、「牛乳、買ってきたよ。なかっただろ?」そういって玄関で牛乳を手渡すぐらいのことができなければ、デキる男とは言えない。
 家庭が円満に運営できるように、気をきかすことだ。これが現代の「大黒柱」のすることだ。仕事がデキる男は、家庭運営も上手にこなすもの。妻に感謝され、尊敬されることが第一だ。そして決して、「男としてのアイデンティティ」を失ってはいけない。このアイデンティティは、おのおのの「をのこ」が自分で作り上げて行くものだ。

 また、「オニババ、ダメおやじ」の夫婦像で心配なのは子どもの教育だ。
 どんな子に育つんだろう。

 夫婦像がどうであれ、子どもに対しては、本音で人間の生き方を語ってほしいと思う。

 子どもは、「オニババ」からも「ダメおやじ」からも生きる知恵を学んでいくだろう。しかし、「温かい心」は熱伝導、「温かい心」からしか伝えることはできない。

 正直、「イクメン」とかどうでもいいと思っている。育児休暇をとれば「イクメン」になれるわけでもない。もっと、大切な部分に目を向けてほしい。

 僕は、仕事が忙しくて妻を手伝えないときは、せめていたわりのことばをかける。休日は妻に自由な時間をというよりも、子どもと遊びたくて遊んでいる。ふだん遊べないから。日曜日の夕飯を作るのも料理が好きだから。趣味は妻と子どもが寝た9時から11時まで。wiiでヨガをして就寝。

 そんな毎日です。

 マンガの「ダメおやじ」が最後社長になり、オニババと仲良くなったのも、根が優しい人だったからだ。そして彼は、どんなひどい目に遭っても、決して誰も憎まなかった。
 僕は少年のころ、このマンガから人をうらまない、憎まない、そんなことも学んだような気がする。






厚切りジェイソンに論理的にもの申す その2 [教育]

大事なことを忘れてた。

このタイトルは、そもそも「TVタックル」で、ジェイソンとビートたけしが「徒弟制度」について議論したことについて、ジェイソンがツイッターに【日本人は「感情的」にしか反論しないので、だれか「論理的」に反論できるやついないのかよ】、と、日本人に挑戦状をたたきつけている、ということに対して、未熟ながら僕が「もの申す」。

まず、たけしの意見。当然「徒弟制度」は賛成。
「銀座久兵衛」の徒弟制度を例に、【目利きの大事さを訴え、寿司を握る技術よりも前に板前としての知識や経験を得るのが重要だとし、徒弟制度を肯定した】という。

一方、短期間で技術を習得する寿司養成学校「東京すしアカデミー」も紹介。どちらがいいか議論している。
【ジェイソンは「自分のスキルを磨いておけば、のちにそういう立場になれることもある」と反論した。
これにたけしが「だって河岸(魚市場)に毎日顔を出さなきゃ魚の良し悪しなんか、わかんないじゃん」と意見すると、厚切りは「調べればいいでしょ? インターネットに書いてあるでしょ?」と返答し、スタジオの笑いを誘う。すると、たけしは「それは魚の種類。なかを切ってアブラがのってるかどうか、わかるかはぜんぜん違う」と声を大きくした。結論は出なかったが、厚切りは首を傾げ、たけしの持論に納得がいかないようだった。】

議論の焦点は、「徒弟制度」の善し悪しだ。

善し悪しを判断する事例を、「魚市場での魚の目利き」に絞っている。これが議論をわかりにくくしている。経験も大事だし、情報も大事、つまりどちらも間違っていないからだ。

「徒弟制度」を議論する理由は、その「学び方」にある。「東京すしアカデミー」では、職人が「教わる」わけであり、「久兵衛」では「盗む」のだ。
「久兵衛」では、年数に応じて扱う魚を分け、その魚の特性を徹底して身に覚えさせる。師匠が「ああだ、こうだ」と教えない。弟子は、師匠の背中ですべてを学ぶ。一方「東京すしアカデミー」では、テキストで先生が手取り足取り教える。その違いだ。

「経験が大事でしょ?」と、ジェイソンら外国人に言っても通用しない。彼らは、弟子に「教えない」師匠のあり方にそもそも疑問をもっていると思われる。
「教えればいいでしょ? なんで教えないの?」
なぜジェイソンがそう言わなかったのかはわからない。くいつくべきはここじゃないのか?
「調べればいいでしょ? ネットで。」じゃないと思う。

 ジェイソンに論理的に説明しよう。

 徒弟制度のよさは、「自ら主体的に学ぶ」ところにある。
 師匠に教わるのももちろんありだが、師匠のすることを「なぜ?」と課題意識をもって考え、その答えにたどり着いたとき、その知識は「知恵」となり、新しいものを生み出す「知力」となる。
 日本の「職人技」というものは、単に「知識」だけではなく、「知恵」や「知力」がもたらす「創意工夫」によって日々進化するものであり、進化を継続することで「伝統」をつないできたのだ。そして新しいものを生み出してきた。
 確かに、「知識」は調べれば得ることができるが、「知恵」や「知力」は、自ら試行錯誤を繰り返し、失敗から学ばなければ身につけることができないもの。

こう説明すれば、ジェイソンも少しはわかったのではないか。

でもジェイソン、経験が大切だってことくらい、わかれよ。
論理的に説明しなくてもさあ。
これくらい、わかってくれよ。
一回、「久兵衛」に弟子入りすればいいと思う。

(余談だが)
なんで「厚切り」って呼び捨てなんだろう?
「厚ジェイ」でいいんでないかい?




厚切りジェイソンに論理的にもの申す [教育]

【厚切りは「日本では『異なる意見=相手嫌い』という勘違いが残念だな」とツイートしており、日本人は相手と「異なる意見」だと、その相手が「嫌い」だと考える勘違いがあるというのだ。】

ある日のブログ。

この指摘は正しい。僕にしても職場でこのことで悩むことがある。
議論したあとに、その相手に話しかけると態度が冷たい。ジェイソンご指摘のとおり、日本では、意見が違う相手は敵、自分を嫌ってる、と思う傾向がある。下手すれば、四面楚歌、仲間はずれ、ということにもなりかねない。だから、会議では沈黙。下手に意見など言わないほうが無難、そんな雰囲気がある。
日本人の悪いところだと、日本人として自省することはしばしば。

「和して同ぜず。同じて和せず」と論語にある。「(君子は)誰とでも調和するものだが、道理や信念を忘れてまで人に合わせるようなことは決してしない。(小人は)相手の意見に同調するが、道理や信念を曲げての同調なので調和することがない。」という意味。

日本人は、「小人」が多いということだ。
仕事上の議論と普段の付き合いは分けて考えてほしいのだが、なぜだかそれが日本人はできない。

これは、日本人と外国人との思考回路に原因があるわけだが、簡単に言うと、日本は島国であり、なおかつ一度も外国からの「侵略」を受けていないという歴史的事実が、その土台にある。
「日本民族」という言い方が正しいかどうかは別として、単一民族を長い歴史の中で維持してきたことによって生じた悪しき性質というべきものだろう。そして古くから生活スタイルの基盤となっていた「ムラ社会」。「ムラ」では、意見の相違などは許されないわけであり、それはすなわち「村八分」、コミュニティからの逸脱を意味していた。
「ムラ社会」によって形成されたアイデンティティは簡単には消え去らない。意見の相違=生き方の違い、生き方が違うお前とはつき合わない、こういった単純方程式で相手を断定するのが日本人だ。侵略された経験がないから、この考え方を改める機会もなかった。

ジェイソンの指摘は正しい。
ただ、外国人に指摘される前に、日本人は自己の国民性を認識して、改めるべきところは改める姿勢を持つべきだ。
「日本って、日本人って、すごいですねえ!」と、日本を賛美するような番組がちらほら見られる。僕はこの手の番組は大好きで見てしまうのだが、考えてみたらちょっと気持ち悪い。

ナルシスト! 日本人。

まあ、顔も不細工で、外国からはほとんど相手にされたこなかった民族だから、海外からほめられるとうれしい。そんな心理だろう。やむを得ない。

確かに日本のよさはある。ただ、それだけに目を向けず、外国人が指摘することも素直に耳を傾けよう。

職場で、家庭で、言いたいことが言えてますか?
僕は、まあまあできている。

「和して同ぜず」

人に嫌われるのは嫌だが、自分で自分を嫌いになるのはもっとイヤ!



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

マツコの言葉から、「家族」について思うこと・・・。 [教育]

今日の「マツコの知らない世界」は、あまりおもしろくはなかった。
秋葉原のカレーとか、耳栓とか、今回はハズレ・・・。

で、今日は久しぶりにまじめに働いたから、ヤフーさえ開く暇もなく、ブログ記事書かなきゃ、とニュースブログを舐め回して、結局マツコのこの記事について書くことに決めた。

【マツコデラックス、家族の必要性を疑問視、「まやかしだよ」】

この記事は、「老後はひとり暮らしの方が幸福度が高い。」という調査結果をもとにしている。
この調査を、マツコがただ自分の都合のいいように解釈しているだけが、調査結果は確かに意外と言える。

家族の問題、家族のあり方は、確かに再考する必要があるには間違いない。
幸福度なんてものは、人によって感じ方が違う訳だから、どちらがいいか、なんて意味がない。
家族がいて幸せ。
いなくても幸せ。
家族がいるけど不幸せ。
いないから不幸せ。
今そう思っても、十年後はまた思いも変わってくる。

だから、問題は、何を望み、どう生きたか、ということだ。

マツコは、この調査結果を受けていろいろ言うだろうが、そもそもマツコがどう考え、何を望み、どう生きたか、で幸せを考えればいい。
老後の環境はどうであれ、それまでどのようにそこまでの道筋をたどってきたかが、重要である。

家族を否定することは、自分を否定することにもなりかねない。
家族はヒトだけでなく、生命のすべてがそれを構成するわけであり、生命維持の重要な要素であるわけだ。
マツコは本気で「まやかしだよ、家族って」と言っているが、本気ではない。
こう言うことで、家族の大切さをアンチテーゼ的に主張している。
「お一人様」のイメージを売りにしているマツコだが、
このスタンスは、お一人様を擁護する一方、家族を持つことの大切さもある意味メッセージとして視聴者に伝えている。

なぜ、そんなことが言えるのか?
それは、マツコというキャラの大きさである。
マツコの言葉から感じられる、マツコという個性、本質が、わかる人にはわかるのだ。
会ったこともないのによく言うよ、と言われそうだが、僕は、自分の「感覚」というものを信じている。

「最後はひとりだよ、人間は・・・。」

マツコの言葉・・・。
もちろんそうだ。

でも、僕も44歳にして結婚し、50歳になる今、4歳と2歳の子どもを育てている。
子どもは・・・自分に似た仕草をする。
そのとき、「自分の子だ・・・。」と実感する。
だから思う。
たとえ自分が死んでも、僕の記憶はこの子らに残り、僕と同じ喜びや悲しみを繰り返し、命をつないでいくだろう。
この感覚、感動は、我が子を抱きしめて実感することだ。

家族とは、自分の周りの血縁をさすことばに終わらない。

家族とは、本当に、自分自身のこと・・・。
生んでくれた両親やご先祖の思いをつなぎ、次世代につなぐ。
生命として義務でもあるが、それ以上に、縦糸としての絆を過去から未来まで届ける、
タイムマシンでもある。

たとえ「お一人様」でも、実子のない夫婦でも、
全世界的な視野で物事を見れば、
いくらでもタイムマシンに乗る方法はあると思う。






この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。