奉仕活動としてのPTAはいらない [教育]
PTAは必要か、という問題提起はもっとあっていい。
そういった意味でこの記事を評価するし、「PTA,やらなきゃダメですか?(小学館新書/山本浩貴著)」も応援したい。
物事を判断するときに大切なことのひとつに、「個人の尊厳」や「意思」が尊重されているか、僕は考える。
この点において、PTAとは、個人の意思に関係なく、学校に入学と同時に「入会」するきまりとなっている。そして何らかの役が回ってくる。つまり完全に「強制的」であり、個人の意思は無視されている。
これは問題である。「仕方なく」する活動は、意義もないし効果も期待できない。
そもそもPTAは、日本とアメリカにしか存在しない。
アメリカでは、教師を雇用するのは学校であり、教師の「監視」という目的でPTAがある。どんな教師が、子どもになにをするかわからないからだ。
戦後、GHQの指導のもとで設立が奨励された日本のPTAの目的、その真の目的もやはり教師を「監視」するためだった。ただ、「監視」の意味が違う。戦前「鬼畜米英、一億玉砕」と叫び、子どもに「竹槍訓練」ばかりさせていた教師が、本当に「民主主義教育」を推進するか、親に監視させるのがねらいだった。
確かに子どもの健全育成のためには、親と学校、そして地域が連携を図る必要はある。子どもから教師による暴力や、性被害やいじめから守るためにも、教師の「監視」は必要だ。そしていろんな行事・イベントの企画も大切。
ただし、やはり「ボランティア精神」によって推進するべきだろう。
日本で「ボランティア精神」が芽生えたのはつい最近のことだが、それでも根強く「奉仕活動」の精神が残っている。
「奉仕活動」は「強制的」である。従わなくてはならない。つまりPTA活動は「奉仕活動」なのだ。英語では「social service(ソーシャル・サービス」。これに対するのが「voluneer servise(ボランティア・サービス)」だ。
つまり、健全なるPTA活動とは、ボランティア活動によって推進されるもの、となる。
これを実践したのが「PTA,やらなきゃダメですか?(小学館新書))」の著者、山本浩貴氏だ。
山本氏は、突然PTA会長に推薦されたが、PTA活動に疑問を感じ、必要な活動ごとに参加者を募るなど、ボランティアによるPTA活動に改革した。この方法は親の意欲を引き出し、親の得意とする分野・技能を生かせる。なによりも、学校が活性化し、子ども達も元気になる。
そして、「子どものため」とは言うが、PTA会長ともなると出席する会合は多い。学校のPTAはもちろん、市町村PTA連合会、地区・郡PTA連合会、県PTA連合会と組織はふくらみ、講演会への参加や研究発表など、かける労力は並大抵のものではない。
ただでさえ日本は家族の団らんが失われつつあるにもかかわらず、これに拍車をかけている。PTA連合会の会長などは、「もっと子どもと会話をしましょう。」と呼びかけるが、当人にそのヒマはない。
矛盾である。
実は、僕の父親もその昔PTA会長をした。地区連合会のPTA会長まで引き受け、多忙な毎日。中学生だった僕との会話は少なかった。もちろん、思春期だったから、父と話がしたいとはそれほど思わなかったが、父にしてみれば、PTA活動をがんばる背中を僕に見せることで、僕になにかを伝えたかったのかもしれない。
それは、それなりに伝わった。しかし、父が亡くなった今となっては、もう少し面と向かって話がしたかった。
時代は変わった。奉仕活動は、なるべくなら無くすべきだ。
子どもが小学校や中学校に入学するとき、「強制するPTA」に加入するのは気が重い。折角の喜びが憂鬱に変わるのも好ましいことではない。
PTAを変えよう!
この風が、全国の学舎に拭くことを願ってやまない。
そして、自分自身も行動を起こそうと思う。
とは言うものの…。
妻が幼稚園の役員を引き受け、楽しそうに会合に出かけていく。楽しいのであれば、それはそれでいい。自分もできるだけ協力している。
そういった意味でこの記事を評価するし、「PTA,やらなきゃダメですか?(小学館新書/山本浩貴著)」も応援したい。
物事を判断するときに大切なことのひとつに、「個人の尊厳」や「意思」が尊重されているか、僕は考える。
この点において、PTAとは、個人の意思に関係なく、学校に入学と同時に「入会」するきまりとなっている。そして何らかの役が回ってくる。つまり完全に「強制的」であり、個人の意思は無視されている。
これは問題である。「仕方なく」する活動は、意義もないし効果も期待できない。
そもそもPTAは、日本とアメリカにしか存在しない。
アメリカでは、教師を雇用するのは学校であり、教師の「監視」という目的でPTAがある。どんな教師が、子どもになにをするかわからないからだ。
戦後、GHQの指導のもとで設立が奨励された日本のPTAの目的、その真の目的もやはり教師を「監視」するためだった。ただ、「監視」の意味が違う。戦前「鬼畜米英、一億玉砕」と叫び、子どもに「竹槍訓練」ばかりさせていた教師が、本当に「民主主義教育」を推進するか、親に監視させるのがねらいだった。
確かに子どもの健全育成のためには、親と学校、そして地域が連携を図る必要はある。子どもから教師による暴力や、性被害やいじめから守るためにも、教師の「監視」は必要だ。そしていろんな行事・イベントの企画も大切。
ただし、やはり「ボランティア精神」によって推進するべきだろう。
日本で「ボランティア精神」が芽生えたのはつい最近のことだが、それでも根強く「奉仕活動」の精神が残っている。
「奉仕活動」は「強制的」である。従わなくてはならない。つまりPTA活動は「奉仕活動」なのだ。英語では「social service(ソーシャル・サービス」。これに対するのが「voluneer servise(ボランティア・サービス)」だ。
つまり、健全なるPTA活動とは、ボランティア活動によって推進されるもの、となる。
これを実践したのが「PTA,やらなきゃダメですか?(小学館新書))」の著者、山本浩貴氏だ。
山本氏は、突然PTA会長に推薦されたが、PTA活動に疑問を感じ、必要な活動ごとに参加者を募るなど、ボランティアによるPTA活動に改革した。この方法は親の意欲を引き出し、親の得意とする分野・技能を生かせる。なによりも、学校が活性化し、子ども達も元気になる。
そして、「子どものため」とは言うが、PTA会長ともなると出席する会合は多い。学校のPTAはもちろん、市町村PTA連合会、地区・郡PTA連合会、県PTA連合会と組織はふくらみ、講演会への参加や研究発表など、かける労力は並大抵のものではない。
ただでさえ日本は家族の団らんが失われつつあるにもかかわらず、これに拍車をかけている。PTA連合会の会長などは、「もっと子どもと会話をしましょう。」と呼びかけるが、当人にそのヒマはない。
矛盾である。
実は、僕の父親もその昔PTA会長をした。地区連合会のPTA会長まで引き受け、多忙な毎日。中学生だった僕との会話は少なかった。もちろん、思春期だったから、父と話がしたいとはそれほど思わなかったが、父にしてみれば、PTA活動をがんばる背中を僕に見せることで、僕になにかを伝えたかったのかもしれない。
それは、それなりに伝わった。しかし、父が亡くなった今となっては、もう少し面と向かって話がしたかった。
時代は変わった。奉仕活動は、なるべくなら無くすべきだ。
子どもが小学校や中学校に入学するとき、「強制するPTA」に加入するのは気が重い。折角の喜びが憂鬱に変わるのも好ましいことではない。
PTAを変えよう!
この風が、全国の学舎に拭くことを願ってやまない。
そして、自分自身も行動を起こそうと思う。
とは言うものの…。
妻が幼稚園の役員を引き受け、楽しそうに会合に出かけていく。楽しいのであれば、それはそれでいい。自分もできるだけ協力している。
2016-03-04 10:01
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