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埼玉少女誘拐事件の謎 [事件]

 2年前、埼玉県朝霞市立朝霞台第三中学校1年生の少女が誘拐された事件は、丸二年を過ぎて無事保護された。
 誘拐犯が外出した隙に逃げ出し、中野駅から自宅に電話をかけた。電話に出た母親は、警察に電話するように言った。

 誘拐犯は寺内樺楓(かぶ)という千葉大生。卒業したばかりだった。工学部で飛行機免許まで持っていた。

 少女が無事見つかって一安心だが、一連の報道を聞いていていくつか疑問に思うことがある。

Ⅰ 「両親が離婚するからこれから弁護士に会いに行く。」という誘拐犯の言葉をなぜ信じたのか?
Ⅱ 2年間逃げ出すチャンスは本当になかったのか?

 そして最大の疑問。

Ⅲ 犯人はなんの目的で誘拐したのか?

  Ⅰについては、当時の両親の状況によるだろう。本当に離婚話があったなら、信じるかも知れない。しかし、中1という年齢であれば、もうすこし疑ってみていい。あまりにもすんなりと誘拐されすぎという印象は否めない。
 Ⅱについては、脅迫であったり洗脳であったり、逃げる気をなくす手段はあったにせよ、誘拐されたての初期の段階では逃げたい気持ちは強かったはずだ。鍵がかけられたても「助けて!」と声にするぐらいはできたはずだが、音が筒抜けのアパートにもかかわらず、隣人は「物音がしなかった。」と証言している。

 この「物音がしなかった。」はとても重要な要素だと思う。つまり、Ⅲの「犯人はなんの目的で誘拐したのか?」につながる。

 これまでの誘拐犯は、「自分好みの女に育てたかった。」など、性的欲望を達成するためというのが概ねの犯行理由だった。「物音がしなかった。」というのであれば、性的欲望のためということではなさそうだ。もしそれが目的ならば、音が筒抜けのアパートになど監禁しないし、なんらかの防音対策を施すだろう。女子中学生を2年間も監禁となれば、アダルトな妄想をしてしまいがちだが、その心配はなさそうだ。ただ、アニメオタクだということから、これから実行しようという矢先だったのかもしれない。
今後の取り調べでこの辺りの事実ははっきりすると思う。

 結論として、寺内の目的は「友達ほしさ、恋人ほしさ」ではなかったか。親しい友人ができなかった寺内は、誘拐という手段でそれを達しようとした。カッターナイフで自殺しようとして死にきれなかった寺内に、これまでの誘拐事件ほどの凶暴性、凶悪姓は感じない。少女がいとも簡単に寺内の嘘を信じたのも、寺内にこの凶悪姓を感じなかったからではないだろうか。

 少女が逃げ出せなかった理由、あるいは、「逃げ出さなかった理由」については、もしかすると誘拐犯の自宅の方が「快適だった」ということも考えられる。もし寺内の家でテレビやゲームをし放題という状況が許されていたら、逃げる気もなくなるだろう。そして寺内が「無害」であれば、尚更逃げる必要は感じなくなる。

 話は変わるが、少女の母親が「すぐに110番しなさい。」と指示したのは賢明だった。逃げた少女を追って犯人が傍にいるかもしれないからだ。その危険を察知したのだろう、母親は「迎えに行く。」とは言わず警察に連絡させた。当たり前かもしれないが、この対応には感心させられる。
 父親は、「犯人どうのこうのより、1日でも早くいつもの日常に戻してあげたい。」と言っていた。この言葉には、マスコミ報道へのメッセージも込められている。少女の名前も報道されているが、僕はここに書く気はない。
 1日でも早く世間がこの事件を忘れ、平穏な日常が少女と家族に訪れることを祈っている。

乙武よ、おまえもか [芸能]

 このタイトルは、わかる人にはわかる。さて、ベッキーに続いて,クリーンイメージの乙武洋匡氏が不倫騒動と相成った。

 以前まで「乙武さん」と言っていたが,「さん」づけをするにはやはり違和感を感じてしまう。
 ここ数年で5人と不倫,新潮に暴露されたのを受けてこのほど謝罪した。それがまた夫人も謝罪しているので,世間の風当たりは相当強そうだ。

 「五体不満足でもあの部分は大満足」など,お下劣な書き込みもあるが,容赦ない批判が相次いでいる。乙武氏は教員経験があり,東京都の教育委員を務めていたのだから尚更だろう。読んでいるうちに段々とかわいそうになってきた。

 本人の謝罪は当然ながら,夫人まで謝罪をしているのは,参議院議員選挙への出馬があってのことだろうが,この夫婦の在り方もまた世間はどう思うだろうか。不倫は家庭内のことだから,妻が許せばそれで終わりだが,社会的な地位があり,政界入りを目論んでいるとなれば,また話は変わってくる。
 この原稿を書いているうちに,「不倫相手は50人以上」という記事も出てきた。不倫相手の暴露など,これから乙武氏をめぐる報道は多くなるだろう。

 彼は,一体どんな人物なのか。

 彼の対談記事から一部抜粋して考えてみたい。ちょうど,「不倫」への認識を示すような内容があった。

[以下乙武氏の発言]
「以前、フリースクールを取材したんです。既存の学校に通えなくなった子が居場所を求めて通っている学校です。そこで彼らに学校って何かと聞いたら「社会性を身につける場所だと思う」という言葉が返ってきて、はっとさせられました。 なぜ彼らが既存の学校にはいられなくなったのか、それは社会性とは集団からはみ出さないようにすることだと捉えられているからなんです。はたしてそれが本当の社会性でしょうか? 社会性とは、「人にはそれぞれ違いがある」ということを認めることではないかなと思うのです。しかし日本ではそうではなく、自分を押し殺し、集団に自分をあてはめていくことだと思われている。それでは不登校にもなるし、会社で鬱になる人も出てきますよね。社会性を身につけるとは、自分を殺してマニュアル通りに生きていくことではない。「一人一人が例外である」ということに、もっと多くの人に気づいて欲しいんです。」

 この意見は,「社会性とはなにか。」について述べたものだ。僕が考える社会性は,「礼儀・作法を弁え,他人と協調し,よりよい社会を築いていく人柄や態度」となる。しかし彼は,「人にはそれぞれ違いがあることを認めること。」だとしている。この言葉自体はとても大切なことだし意味のあることだが,「誤解」を生じる表現でもある。
 つまり,「社会から逸脱することも,それぞれの違いがあるからだ。」という論理になりかねないからだ。この記事では,フリースクールの取材を話題にしているが,学校という型にはまった集団から逸脱する不登校を肯定している。「不登校もいいじゃないか,人はそれぞれ違うのだから。」ということなのだ。

 もしこのような考えが世間に流布すれば,有り難いことに,この世から諸々の問題は消えてなくなるだろう。犯罪が多いのも「人はそれぞれ違うから」だし,不倫をするのも「一人一人が例外である。」から,となる。

 この「一人一人が例外」という表現も,あまり知能が高いとは言えない言い方だ。なぜなら,この表現の矛盾に気づいていない。
 「一人一人が例外」ということは,「みんな例外」ということなのだ。説明はいらないと思うが,もはやそれは「例外」ではない。

 僕も妻帯者であり子どもがいる。そして近所にとてもきれいで若い女性がいる。人間だから、その人との不倫を妄想することはある。もし、相手が誘ってきたら、僕は断りきれないかもしれない。それでもどうするか悩むだろう。不倫をしても、妻への罪悪感を常に感じ、楽しい毎日を送るなんて想像できない。充実した毎日と引き換えに、その女性との不倫を続けるだろう。太陽を直視できない、ふっきれない気持のなかで毎日を過ごすだろう。周囲の人間や、ニュース報道から流れる「不倫」という言葉に過剰に反応し、苦しむだろう。その女性と不倫をするなら、それなりの罰を受けなくてはならない。
 と、こう考える。

 しかし乙武氏はすごい。数年で5人…。これまで50人以上の女性と不倫。うらやましい限りだが、女性に対する感覚や考えが、僕などとはまったく違うのだろう。

 快楽の代償になにを支払う気でいたのだろうか。

 

中学生の自殺を防ぐために必要なこととは [教育]

 今回は広島で起きた事件について所感を述べたい。この報道があってからこの事件について考えてきたが、最近ようやく考えがまとまった。

 このニュースを耳にしたときは、(推薦できないと言われたくらいでなぜ自殺したのだろう)と不思議に思った。しかも、推薦できない理由が万引き経歴で、それが濡れ衣だとすれば尚更だ。「1年の時の万引きは事実無根だから、推薦については再考してほしい。」となぜ言えなかったのか。
 
 世論は万引きの記録にミスがあった学校を批判している。そして、面談が廊下で行われたことなど、学校の対応に批判が集中している。これについては、当然という他ない。喫煙や万引きなどの生徒指導上の問題が多い学校であれば、杜撰なところも出てくるだろう。しかしこのような事態になっては、弁解の余地もない。また、担任の女性教師は卒業式にも欠席し、さらに火に油を注ぐ事態となっている。

 しかし一方で、「なんでも学校のせいにするのはよくない。」とか、「この程度で自殺するなんて。」といった意見もネットで多々見られる。
 
 そもそも報道では、「間違った進路指導で中学生が自殺」と報じられた。それは、本当なのだろうか。
担任は、廊下という不適切な場所ではあるが、「1年生の時に万引きがあったね。」と確認すると、中学生は「親に言わないでください。関係が悪くなるので。」と答えたという。
 これが本当だとして話を進めると、担任が1年時の万引きを本人が肯定したと考えてもやむを得ない。ではなぜ当人は肯定したのか。ふたつ考えられる。

 ひとつは、学校にばれていないが、別件で万引きをしたことがある。
 もうひとつは、学校の記録では万引き犯とはならなかったが、実は万引きをしていた。あるいは、実際にはしなかったが、万引きした友達と同罪と思っている。

 いずれにせよ、自殺には何らかの理由があるはずであり、僕はその理由として、「万引きがあったから推薦はできないと言われショックを受けたから。」よりも、「万引きがあったことを両親に知られたくなかったから。」と考える方が適切だと思う。
 気になるのは、「成績が優秀で明るい子」という評判。こういう子は無理をする傾向がある。両親の期待に応えようと一生懸命にがんばる、そんな子どもは、ふとしたことがきっかけで、ポキンと心が折れてしまうのだ。万引きはしていなかったかもしれない。ただそんな話題が進路面談で出てくるだけでも、この中学生には大事件に思えたのではないか。
 「いい子」と評価されている自分が、万引きが理由で推薦してもらえない。プライドもあったのだろう、「推薦がもらえない」というそのこと自体よりも、「自分の評価が下がったこと」がこの中学生にはつらかったのだ。「いい子」と思って自分を愛してくれている両親を裏切ってしまうことに、耐えられなかったのではないだろうか。
 
 僕がこの事件で思うのは、ふたつ。
 ひとつは、子どもに過剰な期待を抱かないこと。親の夢や希望を押しつけない。「いい子」であることを強要しない。家庭では素でいられるような温かい家庭環境を作ることが大切だ。子どもが悩みを打ち明けやすい親子関係。「友達親子」ではなく。
 僕には四歳になる娘がいるが、いつもご飯を食べるのが遅く、妻に叱られている。妻が叱るのは、ご飯をしっかり食べる「いい子」になってほしい気持ちがあるからだ。テレビを消したり、三角食べを教えたりしているが、しまいには固まって泣き出す娘。最初は冷たく叱るものの、妻は娘を励まし、食べるのを手伝い、娘ががんばって食べ終えると「いい子だね、よくがんばったね。」とほめる。娘は(がんばってよかった。)と満面の笑顔を見せる。親が「いい子」に育つことを望み、このような方法で「いい子」に導くのは自然なことだ。時には「がんばったらご褒美があるよ。こんどマック行こうか。」などとエサをぶらさげる。ただ、子どもが無理をしない範囲で「がんばらせる。」ことが大切だ。親なら、(親の愛情欲しさに無理してるな…。)と子どもの心理を読めなくてはいけない。この中学生の親は、それができていたのだろうか…と考える。

 そして二つ目は、学校の対応についてだ。万引きを一回したくらいで推薦なしは、やはりあんまりだろうと思う。一回の過ちがあったにせよ、推薦を判断する時点での人物評価を大切にするべきである。【喫煙や万引きがあったら推薦はなし】とお触れを出すことで未然防止を考えているのだろうが、そのような「まやかし」ではなく、ストレートでわかりやすい生徒指導をめざすべきだ。また、推薦の判断は誰がしたのだろうか。記事では、担任が万引きの履歴ひとつの理由で単独で決断したように感じられる。もしそうだとしたら問題だ。僕の経験では、本人が推薦を希望した場合は、それを受けて担任が書類を作成し(もちろんその書類には学力や素行、出席日数等が書かれている)、「校内推薦委員会」なる名称の会議で審議する。最終的に学校長が判断する。このような手順を踏んでいれば、書類に書かれた「万引き」についても審議され、その真偽も自ずと明らかになったであろう。

 未来ある青少年が自ら命を断つ。この問題を、もっと真剣に議論する必要がある。大人、社会は、あまりにも大きな重荷を子どもたちに背負わせてはいないだろうか?
 そして学校も、本当に子どもの心に寄り添った指導をしているだろうか。

 学校が悪い、いや、自殺する子が悪い…。

 そんな議論は、議論でもなんでもない。

 いい加減にしろよ、日本人…。


  

中間層が中間層を再生産は当たり前 [教育]

「BLOGOS」でこんなブログを見つけた。

【「東大まで行った人は教師にならない。中間層が中間層を再生産している」 現役東大生の発言で議論勃発】

 この議論について思うこと、まずひとつは、「中間層が中間層を再生産している」という発言は「当たり前」ということだ。この発言自体になんの意義もない。
国が安泰するためには、三種類の人間が必要である。「国を発展させる人間」「国を維持する人間」「国をダメにする人間」の三つだ。割合では「国を維持する人間が大半以上を占めるわけであり、この存在が国の根幹となる。地方大学の教育学部を卒業した教師、つまり「中間層」が「中間層を再生産」するのは、国の安泰のためには重要なことなのだ。これは「役割分担」である。東大生が教師にならないのは、優れた頭脳でもって「国を発展させる役割」を担った存在だからである。
そして、「東大にまで行った人は、中学・高校の教師にならない。だから中間層の人が中間層の人を再生産している。」という発言には矛盾がある。東大生も中間層の教育によって出現しているという事実がある。
この発言をした東大生は、高校の教師に「この成績では行ける大学はない」と言われ一念発起して東大に合格したという。であるならば、この東大生、つまり「上層」は「中間層」によって育てられたのである。
教育とは、良質の授業や「上層」の教育で成果が挙がるわけではない。下層から上層までという様々な個性をもつ人間を相手に、教師は幅の広い対応をしなくてはいけない。相手によっては励ますし、あるいは発憤を期待してわざと生徒を突き落とすこともある。この東大生は、「この成績で行ける大学はない」と言った教師に感謝すべきである。人生とは、そういうものだからだ。いろんな人の存在があって自分が作られていく。そのことを実感し、人との出会に感謝してほしい。

 この「BLOGOS」のブログでは、偏差値29から80にまで引き上げて東大に合格した東大生の「たぶん人間の脳はいくらでも拡張できる。どんな人でも東大に行ける。」という発言を受けて高校教師の対応を問題にしているが、どう考えてもこの東大生の発言は信頼できない。努力すれば全員東大に行けるなんてあり得ない。この東大生にはもともと能力があったに過ぎないのだ。偏差値29の生徒に向かって「おまえは努力すれば東大に行ける」という教師がいるとすれば、そっちの方が怖い。
 
 「中間層じゃないとうまく教えられない」という側面もある、と「BLOGOS」のブログでは言っているが、これも当たり前。東大生の発言に、「ひとつの真理」と賛同する声が多いそうだが、率直な感想を言えば「情けない…。」

 この東大生は、「上層」であり、日本の未来を担う存在である。自分を発憤させた教師を「中間層」と嘲笑し、「中間層が中間層を再生産している。」と、「当たり前」のことをさも新しい発見のように大いばり。
 こんな東大生が日本を担うのかと思うと、そっちの方が問題である。
もうひとつ言うと、東大生に教師は務まりません。東大生が仮に教師をしたとしても、学力は伸びないし生徒指導の問題もなくなりません。かえって学力は下がり、問題が増える。勉強することと教えることはまた違う。そして学校は、受験のためにあるのではない。生徒それぞれが自分の生き方を見つける場所である。

「教師」である僕が言うのだからまちがいない。

奉仕活動としてのPTAはいらない [教育]

 PTAは必要か、という問題提起はもっとあっていい。
 そういった意味でこの記事を評価するし、「PTA,やらなきゃダメですか?(小学館新書/山本浩貴著)」も応援したい。

 物事を判断するときに大切なことのひとつに、「個人の尊厳」や「意思」が尊重されているか、僕は考える。
 この点において、PTAとは、個人の意思に関係なく、学校に入学と同時に「入会」するきまりとなっている。そして何らかの役が回ってくる。つまり完全に「強制的」であり、個人の意思は無視されている。
 これは問題である。「仕方なく」する活動は、意義もないし効果も期待できない。

 そもそもPTAは、日本とアメリカにしか存在しない。
 アメリカでは、教師を雇用するのは学校であり、教師の「監視」という目的でPTAがある。どんな教師が、子どもになにをするかわからないからだ。
 戦後、GHQの指導のもとで設立が奨励された日本のPTAの目的、その真の目的もやはり教師を「監視」するためだった。ただ、「監視」の意味が違う。戦前「鬼畜米英、一億玉砕」と叫び、子どもに「竹槍訓練」ばかりさせていた教師が、本当に「民主主義教育」を推進するか、親に監視させるのがねらいだった。
 
 確かに子どもの健全育成のためには、親と学校、そして地域が連携を図る必要はある。子どもから教師による暴力や、性被害やいじめから守るためにも、教師の「監視」は必要だ。そしていろんな行事・イベントの企画も大切。
 ただし、やはり「ボランティア精神」によって推進するべきだろう。

 日本で「ボランティア精神」が芽生えたのはつい最近のことだが、それでも根強く「奉仕活動」の精神が残っている。
 「奉仕活動」は「強制的」である。従わなくてはならない。つまりPTA活動は「奉仕活動」なのだ。英語では「social service(ソーシャル・サービス」。これに対するのが「voluneer servise(ボランティア・サービス)」だ。
 つまり、健全なるPTA活動とは、ボランティア活動によって推進されるもの、となる。

 これを実践したのが「PTA,やらなきゃダメですか?(小学館新書))」の著者、山本浩貴氏だ。
 山本氏は、突然PTA会長に推薦されたが、PTA活動に疑問を感じ、必要な活動ごとに参加者を募るなど、ボランティアによるPTA活動に改革した。この方法は親の意欲を引き出し、親の得意とする分野・技能を生かせる。なによりも、学校が活性化し、子ども達も元気になる。

 そして、「子どものため」とは言うが、PTA会長ともなると出席する会合は多い。学校のPTAはもちろん、市町村PTA連合会、地区・郡PTA連合会、県PTA連合会と組織はふくらみ、講演会への参加や研究発表など、かける労力は並大抵のものではない。
 ただでさえ日本は家族の団らんが失われつつあるにもかかわらず、これに拍車をかけている。PTA連合会の会長などは、「もっと子どもと会話をしましょう。」と呼びかけるが、当人にそのヒマはない。
 矛盾である。

 実は、僕の父親もその昔PTA会長をした。地区連合会のPTA会長まで引き受け、多忙な毎日。中学生だった僕との会話は少なかった。もちろん、思春期だったから、父と話がしたいとはそれほど思わなかったが、父にしてみれば、PTA活動をがんばる背中を僕に見せることで、僕になにかを伝えたかったのかもしれない。
 それは、それなりに伝わった。しかし、父が亡くなった今となっては、もう少し面と向かって話がしたかった。

 時代は変わった。奉仕活動は、なるべくなら無くすべきだ。
 子どもが小学校や中学校に入学するとき、「強制するPTA」に加入するのは気が重い。折角の喜びが憂鬱に変わるのも好ましいことではない。

 PTAを変えよう!

 この風が、全国の学舎に拭くことを願ってやまない。
 そして、自分自身も行動を起こそうと思う。

 とは言うものの…。
 妻が幼稚園の役員を引き受け、楽しそうに会合に出かけていく。楽しいのであれば、それはそれでいい。自分もできるだけ協力している。

 

岡本太郎の生き方はいいかも [教育]

 NHKの火曜日午後10時。マツコの知らない世界のあとは、「知恵泉」を見ている。
 今日は「岡本太郎」だった。

「芸術は爆発だ!」でおなじみ。あと大阪万博の「太陽の塔」。母は詩人岡本かの子。
 知っているのはこれだけだった。この番組を見るまでは。

 父親も芸術家で、妻のかの子が「好きな人ができた。」と言うと、「好きになったなら仕方がない。」と、愛人との同居を許す。確かにかなり変わっている。芸術一家だから、茶の間で芸術論を闘わすことがあったが、太郎が議論に参加すると、両親は子どもだからとバカにすることなく、素直に意見を聞いていたという。

 能力が低く、いつも周囲からバカにされていた太郎にしてみれば、両親のこの態度には救われたことだろう。そして両親との議論から、優れた能力が育っていったのは想像に難くない。

 パリに画家留学したときのエピソード。周囲の仲間が「パリ留学」のステータス目的だったことに落胆し、しばらく絵から離れることを決心。フランスのネイティブと親交を深める。これはこれで、いろんな苦悩もあっただろうと思われる。太郎は、パリの街を放浪するなかで、「有名になりたい、金持ちになりたい。」という欲求から解放される。その解放から、人間の根源にあるパワーに気づかされる。これがいわゆる「芸術は爆発だ!」という表現の理由であろう。
 第二次世界大戦に召集され、自ら苦労を買って出る。「苦労のある人生は楽しい。」という考えに、僕も同意する。

 確かに太郎が世に出たのは、両親の威光の賜物であろう。しかし、苦悩と苦難を乗り越え、それに応えるだけのパフォーマンスを世に示した。
「時代が生んだ」と言われる人がいるが、岡本太郎もそのひとりなのだろう。

 この番組で学んだこと。
◇ 子どもの育成に親子での議論は有効である。

 今、四歳になる子が「なぜ?」と盛んに質問してくる。親として、なるべく詳しく説明してやる。妻は「そんなことわかりっこないじゃない、まだ四歳なのに。」と言うが、「わからないと決めつけるのはよくない。説明からさらに新たな疑問が生まれ、思考も深まる。」と反論。これからはどんどん四歳の子に議論をふきかけ、「考える子」に育てたい。

◇「人間の根源」を感じろ!
 僕は今、小説を書いており、「売れたい、金がほしい。」という気持ちが先行してしまっている。それではいけない。小説自体にもっと没頭しなくてはいけない。おもしろい小説が書きたいなら、人間への洞察を深め、人間を理解し、そして自分が何をしたいかを明確にし、元気はつらつと創作に励む。
 そうすれば、いつか光が見えてくる。

 今、僕は洞穴の中にいるのだ。

※ 次回、NHK「知恵泉」は岡本太郎後編、「太陽の塔」制作について。今度はどんな生き方・考え方を 見せてくれるだろうか。
 



このブログ、視点が違うと思う… [事件]

変なブログを見つけた。

【そもそも必要ないはずなのに、禁煙の飛行機のトイレに「灰皿」があるのはナゼ】

飛行機に灰皿がある理由を説明しているこのブログ。
なんか違うと思う。

飛行機内での喫煙は禁止されている。
が、我慢できなくなっちゃった人が、トイレでタバコを吸ったときに、便器にタバコを捨てちゃうと火事になる可能性があるから、灰皿が置いてあるんだよ、知ってたあ?
みたいなノリ…。

僕は、バカじゃないかと思う。

みなさんは、「なるほどそうなんだあ。」って、このブログを読み終えることができますか?
僕はできない。

飛行機に乗るのが怖くなった。
なぜって、
もし、どっかのバカかテロリストが、トイレに行ってタバコ吸って、わざと便器に投げ込んだらどうする?

灰皿が置いてある理由は、
【便器にタバコを捨てると火事になる可能性がある】からだ。それを防ぐために灰皿が置いてある。

なるほど・・・じゃなくて、可燃性のモノを投げ込むと火事になるかもしれない飛行機のトイレって、それって、安心できますかって話。

もちろん必ずしも火事になるわけではないが、その危険性があるなら、防御策として灰皿を置くよりも、飛行機を落とそうとか考えるバカもいるわけだから、もっと効果的な防御策を講じてほしい。

そう思うのが普通ではないか。
飛行機に灰皿がある不思議なんて、よくもそんな呑気なことを言っていられると逆に感心してしまう。

どこかのバカが飛行機でタバコを吸って、灰皿にも気づかず、トイレからの火災発生で飛行機が落ちてしまったら、そのとき漸くこの問題に気づくのかもしれない。

でも僕は信じている。ちゃんと対策は講じてあるはずだと。
飛行機のトイレにタバコの吸い殻を捨てて、火事なんかになりっこない。そんなバカなことってあるはずがない。

そう信じるが…。
今度の出張、新幹線で行きます。





TBSの「モニタリング」がおもしろい! [教育]

きのう(2/25)のモニタリングが面白かった。

特に、「とつぜん息子・娘が芸能界に入りたいと言い出したら父親は許すのか。」というコーナー。

最初の親子は公務員の父に就職が内定した息子。息子がとつぜんお笑い芸人になりたいと言い出し、すでにオーディションにも合格したと契約書にサインをしてくれと頼む。
 公務員という仕事柄、父親は許さないだろうと予想された。「小さい頃からの夢ならわかるが、そんなこと今まで聞いたことがない。一過性のもんだろう。」と父はさすがによく見ている。息子は、「とにかくびびらない松村です。」とか言って、完全に「安村」のパクリでネタを披露。父親は「見たくない、見たくない」と拒否するが、息子は平然とネタをやり続ける。「それ、パクリだろう。それに面白くないからやめろ!」と言うかと思いきや、「けっこう面白かった。」らしい。最後には「それがおまえの夢なら。」と芸人になることを許す。

 次の親子は仲のいい父と娘。大学に入ったばかりの娘が芸能プロダクションにスカウトされ、プロダクションの男が自宅に契約書をもっていくる。仕事はグラビアだと聞かされた父親の顔が曇る。さらに、橋本マナミが登場。父親を説得するための登場かと思いきや、「かなりきわどいこともします。」と自身の写真集を見せ、追い打ちをかける。これには笑えた。この父親も最終的には娘がそう望むならとあっさりオッケイ。最後は「どうせこれ、あっちからカメラでも出てくるんじゃないの?」とモニタリングであることを当てた。モニタリングはよく見ているらしい。

 ふたりの父親とも意外にあっさりと子どもの要求を承諾し、「子どもの夢のためなら。」と、子どもの意思を尊重する態度には感動するものがあった。
 
 しかしだ。番組が終わってヨガをしていたら、妙な感情がわき上がってきた。
 そう、「ものわかりがよすぎる。」

 ひとりくらい、「ばかもん!(波平調)」と怒鳴るおやじがいてほしかった。「芸能界はそんなにあまいところじゃない! 世間をなめるのもいいかげんにしろ!」と叱責する父親。

 カミナリおやじは今や化石になりつつあると思ってはいたが、このモニタリングでそれがはっきりした。世の父親は、「ものわかりのいい父親」、そして親子は「おともだち」なのである。

 僕は、「ともだち親子」はうらやましいと思う。ただ、いつでも「おともだち」でも困る。時には「がんこ親父」になることがあってもいい。そんな親父を受け入れる子どもに育てたい。
 今、4歳になる娘がとってもかわいい。その娘がいろいろ甘えてくる。「いいよ、いいよ。」とついつい言ってしまうが、心を鬼にして、「だめだ!」というときもある。
 つらいんだな、これが・・・。

 父親は、「嫌われ役」です。耐えるべし!

小学校からの英語教育についてもの申す [教育]

小学校から英語教育は必要か、という問題について。
文科省は、現在5,6年で行っている「外国語活動」の時間を3,4年生に前倒し、5,6年生では英語を正式教科にする方針だ。2018年から段階的に導入する。

現在小学校では5,6年生で「外国語」という科目で英語教育が実施されている。自治体によっては予算を組み、英語教育の充実を事業として取り組んでいるところもある。
中学校から英語教師を呼んで授業をさせたり、英語の専任教諭を配置したり、またALTの派遣、英語弁論大会優秀者にアメリカ旅行プレゼントなど、いささか行き過ぎとも思われるような事業を展開している。
 
 グローバル社会において、英語の重要性は認めないわけではないが、果たして文科省の方針は適切と言えるだろうか。「小学校で英語は不要」と言い切る有識者もいる。
 
 カリキュラムから考察すると、小学校3,4年生から何を学ばせるのか、ということだ。簡単な英単語の学習は、幼稚園や保育園でもしているが、身の回りの日本語を英語で言えるような能力を身に付けること、それ自体は目標にはならないだろう。現在の小学校の外国語学習のねらいは、英単語を覚えることではなくて、英語に親しみをもつことだ。ALTとの会話を通して、英語を耳で理解し、英語で話す態度を養うことにある。5,6年で本格実施となれば、単語テストぐらいは実施するのかもしれない。

 僕は十数年前、イギリスのリバプールを旅行したことがある。庶民的なホテルに泊まり、ある朝の朝食時、宿泊していたフランス人と英語で話した。僕は片言の英語で、四苦八苦そのフランス人と会話をしたのだが、なんとか会話はできた。確かに、英語が得意だったらもっと楽しい会話ができただろう。悔やんだ僕は英会話の勉強をしようと思ったのだが、帰国してからはすっかりその気はどこかへ消えてしまっていた。
 仮に、僕が小学校から英語を学び、英会話も得意で、リバプールでフランス人と楽しく会話ができたとしよう。「ああ、英語ができてよかった」と僕は思うだろう。しかし、そう思うのは、そのときだけだ。僕が外国人と関わる場所にいないかぎり、僕は日本語だけで生きていける。

 なにを言いたいかといえば、日本人全員が流暢な英語を話す能力を身に付ける必要はない、ということだ。国際社会で確かに英語は必要だが、みながみな、国際社会に直接関わるわけではない。英語は特に好き嫌いがはっきりする教科で、将来英語力を生かせる職業を希望する児童生徒は早くから塾などに通っている。苦手な子どもは基本的な英会話が確実にできればそれでいい。
 あまりにも英語教育に力を入れすぎて、肝心の国語力が…、という本末転倒はあってはならない。
 日本語が危機的状況にあるなかで、英語力の育成を児童生徒に押しつけるのはいかがなものか。

 文科省にはぜひ再考をお願いしたい。

妻は鬼だし、夫もダメでしょ… [教育]

【夫たちの座談会、「嫁が鬼なのか、夫がダメなのか・・・】と題したブログ。
「イクメン」として地位を築き上げたサラリーマン夫3人の雑談だ。
イクメンとしての仕事ぶりや、鬼嫁自慢が展開されている。

鬼嫁自慢だったら僕の職場の同僚の話の方がよっぽど面白い。
そんな話よりも、すこし「鬼嫁、ダメ夫」について考えたい。

少年のころ「ダメおやじ」を読んだ。心根は優しいが、なにをやっても妻の「オニババ」にいじめられるダメおやじ。このマンガ、1970年から12年間連載された。
当時はまだ亭主関白の傾向が強かったが、時代と逆行する主人公を描くことでギャグ質を高めるねらいがあったという。
それが今や「オニババ、ダメおやじ」は現代社会の典型的な夫婦像になり、決してマンガの世界の話ではなくなった。「ダメおやじ」は、図らずも近未来を予想するマンガとなった。

「イクメン」と自他共に認められたサラリーマン三人の「ぼやき」を聞いていると、「イクメン」とはなんだ? という気がしてくる。
 ただ単に妻の「パシリ」で、家事手伝いを分担するだけで、それが「イクメン」というのは少し違うような気がする。
 きれいごとを言うようだが、やはり子どもへの「愛情」が根本にあるべきであり、妻への愛・感謝が心になければ、帰宅するなり牛乳を買いにいかされる羽目になる。
 「こころ」がないことへの妻の怒りだ。
 そして、家庭を「運営する」という意識。やせてもかれても男は家庭の「大黒柱」だ。男たるものは、この気持ちがなければダメだ。
 これは、威張れ、と言っているのではない。牛乳を買いに行かされる前に、牛乳が冷蔵庫にないことぐらい把握しておいて、「牛乳、買ってきたよ。なかっただろ?」そういって玄関で牛乳を手渡すぐらいのことができなければ、デキる男とは言えない。
 家庭が円満に運営できるように、気をきかすことだ。これが現代の「大黒柱」のすることだ。仕事がデキる男は、家庭運営も上手にこなすもの。妻に感謝され、尊敬されることが第一だ。そして決して、「男としてのアイデンティティ」を失ってはいけない。このアイデンティティは、おのおのの「をのこ」が自分で作り上げて行くものだ。

 また、「オニババ、ダメおやじ」の夫婦像で心配なのは子どもの教育だ。
 どんな子に育つんだろう。

 夫婦像がどうであれ、子どもに対しては、本音で人間の生き方を語ってほしいと思う。

 子どもは、「オニババ」からも「ダメおやじ」からも生きる知恵を学んでいくだろう。しかし、「温かい心」は熱伝導、「温かい心」からしか伝えることはできない。

 正直、「イクメン」とかどうでもいいと思っている。育児休暇をとれば「イクメン」になれるわけでもない。もっと、大切な部分に目を向けてほしい。

 僕は、仕事が忙しくて妻を手伝えないときは、せめていたわりのことばをかける。休日は妻に自由な時間をというよりも、子どもと遊びたくて遊んでいる。ふだん遊べないから。日曜日の夕飯を作るのも料理が好きだから。趣味は妻と子どもが寝た9時から11時まで。wiiでヨガをして就寝。

 そんな毎日です。

 マンガの「ダメおやじ」が最後社長になり、オニババと仲良くなったのも、根が優しい人だったからだ。そして彼は、どんなひどい目に遭っても、決して誰も憎まなかった。
 僕は少年のころ、このマンガから人をうらまない、憎まない、そんなことも学んだような気がする。






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